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箱根駅伝 新作クイズ上級編(細かすぎる解説付)です。
様々な問題から「箱根駅伝」について知ることができます。
往路・復路の10区間を想定して作りました。
箱根駅伝の伝統や歴史を知ることで、さらに楽しく駅伝を楽しめます。
オリンピックにはない、日本独自のレースです。
大学駅伝としては最も歴史があり、伝統のレースとなっています。
新年早々に繰り広げられるレースは、毎年の「絆」や「努力」を感じられる、筋書きのないドラマです。
全問正解して、今年も箱根駅伝を楽しんでください。
出場校は20校で、これとは別に出場校以外の競技者による関東学生連合チーム(オープン参加)が参加する(2015年の第91回東京箱根間往復大学駅伝競走以降の編成)[2]。さらに5年ごとの記念大会では関東インカレ成績枠という出場枠が設けられている[3](2019年の第95回東京箱根間往復大学駅伝競走以降の編成)。
コースは、東京都千代田区大手町・読売新聞東京本社ビル前から、鶴見、戸塚、平塚、小田原の各中継所を経て神奈川県足柄下郡箱根町・芦ノ湖までの往復で、往路107.5km、復路109.6km、計217.1km[4]。1月2日に東京から箱根への往路を、1月3日に箱根から東京への復路を走る。
第1回大会は、アメリカ大陸の継走での横断を実施するための代表選考会という位置付けで、1920年2月14日に行われた。これは、1912年のストックホルムオリンピックに出場した日本人五輪選手第1号の金栗四三が、「五輪で日本を強くするには、長距離、マラソン選手を育成すること」と発案したことがきっかけである。別の説として、箱根駅伝は飛脚制度をもとに、手紙に見立てた襷を、東京から宿駅があった鶴見(川崎宿)、戸塚(戸塚宿)、平塚(平塚宿)、小田原(小田原宿)で引き継ぎ、箱根町郵便局(箱根宿)まで届ける観光イベントだったという説もある。その目的は、箱根で観光客が少なくなる冬に観光客を呼びこみ、2日間に渡って開催する事で旅館やホテルに宿泊してもらうためだったと言われている。第二次世界大戦中の1941年から一時中断されたが、1943年に一度だけ戦時下で開催された(靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会)。その後、再び中止となり、戦後の1947年に復活。第32回(1956年)から現在の1月2・3日の開催となった(内規第1条)。
箱根駅伝は、関東地方では従前から人気があったが、1987年に日本テレビが全国放送で全区間の生中継(電波を途切れさせることなく完全中継実施は1989年から)を開始して以降、正月の風物詩(国民的スポーツ大会)として関東地方以外でも知名度・注目度が格段に向上した[注 2](詳細は#中継番組を参照)。また、箱根駅伝出場者からオリンピックや世界陸上などに出場を果たした選手も少なくない(詳細は箱根駅伝の人物一覧を参照)。
箱根駅伝は、関東学連が主催する地方大会であり、10位以内に入ると、同じ年の全国大会で駅伝シーズンの開幕を告げる出雲全日本大学選抜駅伝競走(同年体育の日開催。以下「出雲駅伝」という)に関東代表として出場できる[注 3]。一般に、出雲駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝を併せて「大学三大駅伝」と呼ばれており、同じ年度の全大会に優勝すると「三冠」と称され、大東文化大学(1990年度)、順天堂大学(2000年度)、早稲田大学(2010年度)の3校が達成している。ただし、箱根駅伝は全国大会ではないため、関東学連加盟校以外の大学は三冠を達成することはない。また大東文化大学は復路優勝を、順天堂大学と早稲田大学は往路優勝を逃しており、箱根駅伝を完全優勝しての三冠を達成した大学は1校もない。
歴史
箱根駅伝が着想されるに至ったきっかけは1919年10月、金栗四三が埼玉県鴻巣市で行われた小学校の運動会に審判として招かれたことであった。帰路の車中、金栗は(同じく審判として招かれていた)2人の陸上選手、東京高師の後輩・野口源三郎および明治大学の学生だった沢田英一と語り合った。沢田英一がその年の6月に同窓の出口林次郎と二人で札幌・東京間の走破を成し遂げていたことを踏まえ、3人は世界の耳目を集め、日本の長距離選手を育成するような外地での長距離走はできないものかと考えた。このときの結論が「アメリカ大陸横断駅伝」であった。その「予選会」という位置づけで国内での駅伝大会の実施が企図された。アメリカ大陸横断コースで最も大きな障壁となるであろうロッキー山脈の走破を見据え、この「予選会」のコースとして選ばれたのが山越えをコースに含む東京-箱根間であった。金栗らは大学や新聞社を回って参加と協力を訴え、金策に苦労しながらもなんとか1920年2月14日の第1回箱根駅伝の実施へこぎつけた。
こうして箱根駅伝の歴史が始まるが、肝心の「アメリカ大陸横断駅伝」は実現しなかった。明治大学の出口林次郎と早稲田大学の生田喜代治らは箱根駅伝の実施に協力を惜しまなかった報知新聞社を訪ねて再び計画への協力を願ったが、実現は難しいという答えしか得られなかった。二人はあきらめず毎日新聞社の資金を得て調査のため1922年にアメリカに渡った。結局「アメリカ大陸横断駅伝」の話はそのまま頓挫した。その後、出口はコーネル大学からベルリン体育大学に学び、母校明治大学で教鞭をとることになった。しかし生田は渡米5年目の1927年メキシコのカンセンシコで事業をめぐるトラブルに巻き込まれて横死している。資料によっては「アメリカに渡った学生が殺害されたため、アメリカ横断駅伝の計画はついえた」という書き方がされていることがあるが、実際には計画は早々に頓挫しており、生田の死によって駅伝計画が中止されたわけではない。
別の説もある。箱根駅伝は寒さや雪のため箱根で最も観光客の少ない真冬の2月に観光客を呼び込み(第1回開催は2月14〜15日)、2日間に渡って開催することで、ホテルや旅館に宿泊してもらうために行われた町おこしのイベントであり、1917年に行われた「東海道駅伝徒歩競走」に影響を受けた当時の箱根町郵便局長・石内九吉郎が企画し、箱根町長だった養父・石内為次郎の紹介で、神奈川県会議員の河野治平に開催の相談を持ちかけたのがきっかけである。観光イベントだったため後述のように地元の協力があり、競技のルールもあいまいであったと言われている。河野の息子は、第1回箱根駅伝で4区を走った河野一郎であり、孫は関東学生陸上競技連盟の役員を務めた河野洋平である。そもそも駅伝とは、飛脚制度(郵便配達)をもとにした日本独自の競技であり、箱根駅伝は手紙に見立てた襷を、東京から宿駅があった鶴見(川崎宿)、戸塚(戸塚宿)、平塚(平塚宿)、小田原(小田原宿)で手渡し、日本最古の郵便局である箱根町郵便局(箱根宿)まで届けて、東京に戻るまでの速さを競うという意味があり、箱根町郵便局はよく知られていた。宿駅を基準に区間を設定しているため、一区間が約20kmと他の駅伝に比べ長い距離になっている。なお、郵便局は戦後にゴール地点から移転している。
黎明期は現在のように開催期日が固定されていたわけではなかった。また「学生の本分は勉強」という理由で、午前中に授業をした後で午後からスタートすることもあった。このためにレース途中で日没となり、中でも5区の選手が暗闇の中を走らなければならなかったが、実際には地元の青年団の団員が松明を持って伴走したために事なきを得た[42]。
山登りの5区は当初はスタートとゴールしか決まっておらず、出場校は箱根山中をできるだけ近道をしようと思っていた。しかし前述のように選手を心配した地元住民たちが松明を持って伴走するなど協力があったので、結局は近道をするチームはなく、全チームが無事に走り終えることとなった。しかし山登りのあまりの苦しさに、道端の木にしがみつき泣きじゃくる選手もいたという。